移住した私が岡山で暮らす記録

やぎぐるい、岡山市に感動。コロナ禍を機に県内旅行に目覚める旅好き(←妄想も含む)。最近は暮らしのプチストレスの解消がマイブーム。スターありがとうございます^^

発達障害こそ福祉を頼れ~自分語りを添えて~

フレンチのメニュー風のタイトル。

 

ここ数年診断済みの発達障害として完全に身寄りのない中生きていますが、障害福祉の世界は本当に難易度が高いと思います。

今も福祉とか病院の手をめちゃくちゃ借りながら生活を構築している最中ですが、現時点で思うことをまとめてみようと思います。長いので、複数記事に分けます。

まずは略歴をざっと…。

 

 

精神科関係の略歴

大雑把な流れ

親との相性がよろしくないプライドで固められた家庭で育ちました。

中3~大3まで不登校

なんとか進学就職は持ち前のガッツと過集中と大胆な選択と集中で乗り切りましたが、社会人生活はガタガタで、徐々についていけなくなり休職しました。

 

初めての心療内科(高2)

高2の時親に連れられて行った地域の総合病院の心療内科では「不登校はよくあること」と言われ、親がホッとした様子で終了。

今思えば家では常にだれかの罵声や泣き声が響き渡り、問題行動テンコ盛りの今なら通報されるような家庭でしたが、母親のプライドが凄まじく、大家から同じアパートの住民にかなり根回しをしていたからか、児相のお世話になったことはありません。

そんな母親に連れられての受診だったので、当然ですが「問題ない」の太鼓判を貰いに行く作業だったように思います。

当時は「病気ではない」ことを突きつけられ、目の前が真っ暗になるような感覚を覚えた記憶があります。じゃあ何なんだよと。

 

不登校と言っても家をとにかく追い出されていたので、学校近くの栄えた町をフラフラ制服で徘徊し、欠席日数を増やさないように行ける日は5限だけ行く的な日々を過ごしていました。

学校に特に家庭の事情等を話した覚えはないのですが謎に理解があり、細かく「どこに行ってたの!」等と言われずに助かりました。禁止のバイトも親のサインなしで許可してもらえました。親のモンペ具合で色々と察して動いてくださっていたのだと思います。

 

大学

大学の保健室的なところでは睡眠障害を訴えていたようです。

学費以外のお金が自腹だったので、家賃の安い日の当たらないゴミ屋敷で一人布団にくるまってよく泣いていました。

水道料金、ガス、電気、基本的に全部順番に止まっていました。引き落としにしても、稼ぐ能力がなさすぎて滞納していたからです。

 

当時は恋愛も大好きで、一人暮らしの彼氏の家になだれ込んで同棲していた期間も2年くらいありました。

とにかく母親と離れるには経済的な自立しかないと思い、進学で実家を半ば強引に出たのでとにかくアクセルベタ踏みでどういう手を使ってでも走り切るしかないと思っていました。

 

これ以上の衝撃エピソードもありますが、とにかく周りにうまいこと助けられて卒業した大学生活でした。

 

(私の場合、高校~大学で多様性を感覚で理解している人に囲まれて、自然に助けられながらぬくぬく育ったので、人間関係は全く問題なかったのですが、一方で多少の家が汚いとか朝起きられない程度の話ではそこまで異常事態だと思ってもらえなかったため、自分もあるあるだと思い込んでしまった、という弊害もありました。。良くも悪くも…)

 

就職1年目

就職1年目に精神的な危機を迎え心療内科に行ったものの、発達障害の10個の特徴のラミネートされた紙を見せられ「あなたは発達障害でも鬱でもない!!もっと重くなったら来なさい!!」と追い返されました。

休職後にこの病院のことを思い出し(あれヤブだろ。ボロクソに口コミ書いたろかな)と思ってGoogle mapを見たら閉業していました。

 

就職4年目(休職)

就職4年目で当時の上司がほぼ虐めに近いことをやるようになり、限界だと思ったので休職しました。ここでやっと精神科で診断がつきました。

診断は適応障害うつ病ADHDと変化しました。

 

検査の結果平均IQが120あり、一見すると自分の要求を自分で口にできる様子だったことからかなり軽症と判断されていたようで、どのような支援を訴えてもスルー、鬱状態が全く回復せず、休職延長の診断書の依頼もかなり強く言ってやっと渋々…という状況が続きました。

 

この時点で通院を開始して半年が経過し、障害者手帳の診断書を書いてもらいました。

「こういうのは重めに書くものなので…(衝撃を受けないでね)」と言われたのですが、自分の現実とは大きく乖離した軽い内容でした。当然3級でした。

(8項目で4段階評価が行われるのですが、軽い方から1、2番目の選択肢にしかマルがついていませんでした)

 

この時は訪問看護も利用していましたが、○○病院に転院を考えていると言ったら「そこで実習したけど、あんなところ、あなたのような人が行くところじゃないよ!!」とすごい剣幕で言われました。

今になって、古い情報は全くあてにならないなと思いました。障害は見た目でもありません。

 

その後発達障害に詳しい医師がいるクリニックに転院しますが、そこでも「IQ120あるんだから○○なんてできない訳がない」と数々のヘルプを文字通り一蹴され、「ヘルプを出しても誰も助けてくれない」と言う良くない経験をかなり重ねました。

むしろ精神科に通うことで精神状態が悪化する最悪の流れにハマって1年半が経過していました。

 

現在の病院へ

これでダメだったらもう終わりだと思いつつ、入院設備もある精神科単科病院に転院しました。

ここで診断がASDADHDになりました。

ASD診断がやっとついた、ASDないはずがないと思ってたんです」と言う私に、主治医は「診断できる医師、病院スタッフ(心理士とか)は限られているからね」と言っていました。もっと前に知りたかったよ…。

 

IQではなく特性で何が苦手かという観点で、私の申告(+拘りも…)や希望をもとにサポートをしてくれて、福祉への繋ぎも行ってくれて、やっと安心してヘルプを出せるようになりました。

 

結構嬉しかったのが、容易にパニック状態に陥ってしまい拒食状態になることが多々あるのですが、どこで引っかかってしまって食べられなくなるのか?を段階ごとにほぐして一緒に整理してくださり、具体的な解決策を提示してくれたことでした。

(→チンしたら食べられるような好きな冷凍食品を探してみましょうか、とか。)

 

何がなんだかわからない状態でも、ヘルプを出したことにより解決に向かう経験を積むことができるようになったことで、パニックの頻度も少しは下がり、精神状態もかなり良くなりました。

 

現在の方針としては、福祉の支援を無理ない範囲で(対人関係が凄く苦手なので)受けつつ、仕事の負担を大幅に軽減する方向で、サービスの検討等できることをして頂いています。

 

ちなみに投薬は打診はされていますが、個人的に「基本的に生活や労働の再構築がメインで、投薬は必須ではない」という強い拘りを伝えているため、選択肢として提示してもらうにとどまっています。

 

また、この病院にかかっている時に障害者手帳の更新の機会があり、休職後に初めて書いてもらった診断書とは段違いの、現実にある程度即した評価を受けることができました。

4段階評価の軽い方から1,2,3,4点をつけて8項目で平均点を出すと、平均2.8とかです。

それでもストレート(審査会で判断が割れない)で3級でした。

ここで、手帳でここまで苦労するんだから年金は自分が分かっていないポイントがめちゃくちゃあるはずだ、3級さえ厳しいかもしれないと気を引き締めたところです。

 

まとめ

とにかく単身の場合、誰にでもできる話ではないため本当に苦労します。

発達障害はスペックの凹凸だけでなく、本人の困り度合がどれだけ大きいかが支援を行うキーポイントなので、できれば客観的に自分の生活、経歴を見てくれる人が周りにいると心強いと思います。

 

自力でやるにはかなりしんどい作業になります。時間も使います。仕事をしながらなんて自分の首を絞める行為です。

 

「困りごとが多いけど、自力で言語化するのがしんどいから助けてほしい」という場合は、各県に設置が義務づけられている「発達障害者支援センター」にコンタクトを取って話してみても良いと思います。発達診断は必須ではないです。無料です。

岡山市民の場合→「ひか☆りんく」ご利用案内 | 岡山市

全国の発達障害者支援センター(地図上で見れます)→http://www.rehab.go.jp/ddis/action/center/

 

とりあえず、発達かもしれないと思って困っている人は、初手病院でなくても良いので、公的な福祉を頼ってみませんかという話でした。

 

病院からだと、情報がうまく入らないことがかなり多かったです。ASDらしく、理屈で薬よりも環境調整が先だとか、発達障害はIQが高いから支援が要らない訳ではないとか言っても、全く通じない世界でした。

その点、福祉の世界、特に発達障害に詳しい方に繋がることができると、とにかく話が通じます。ストレスを抱えずに済みます。

 

発達障害かも?と困っている人に参考になればと思います。

 

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